土木遺産マップ
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大田原周辺
那須疏水橋は、黒磯市西岩崎の那須疎水に、明治38年(1905)に架けられた石造りのアーチ橋である。現在は旧道となったが、県道矢板那須線が通っていたもので、橋長5.0m、幅員3mである。
明治18年(1885)9月、那須野ケ原の開発に伴う那須疏水の完成当時は、簡単な木橋で両岸の村を結んでいたといわれる。しかし、木橋のため痛みが著しいことから、明治38年(1905)11月頃に石積のアーチ橋に架け替えられたものである。丁度、西岩崎取入口の第1回目の変更の時期であり、同じ技術者によって造られたものであろう。なお、那須野ケ原の疏水工事に携わった石職人は大分県25人、岡山県4人、福島県1人という記録が残されている。
那珂橋は、国道461号の大田原市黒羽田町と黒羽向町の境を流れる那珂川に架けられた橋長166.8m、幅員5.5mの下路ワーレーントラス橋である。
昭和47(1972)年、車両通過量の増加に伴い、歩道橋(単純鋼鈑桁橋)が隣に架設されている。
天保11(1840)年に黒羽向町の釜屋九兵衛によって架けられた舟橋がはじまりで、年3,4回の洪水のたびに取り外さなければならなかったため、明治32(1899)年12月に木橋が架設され、「那珂橋」と命名された。
現在の那珂橋は、昭和8(1933)年7月に、総工費約6万3千円余で架けられたものであり、橋脚4基はラーメン構造の切石積、橋桁は単純トラス4連と鋼板1連の組み合わせによる混合橋である。
木ノ俣用水は、那珂川の支川木ノ俣川から取水する用水の総称である。明治26年(1893)に開削された新木ノ俣用水に対して、江戸期に開かれた用水を旧木ノ俣用水と称している。
旧木ノ俣用水は、木ノ俣川から取水し、黒磯各地を潤す重要な用水で、江戸時代半ばに開かれた穴沢用水を起源とする。穴沢用水は宝暦13年(1763)から明和2年(1765)に開削され、一集落を潤す程度の用水であったが、数年後には約10km下流に延長され、重要性を増した。文化年間(1804~1817)には、幕府代官山口鉄五郎の新田開発に利用され新たな山口堀が開かれた。工事は、穴沢用水の木ノ俣川の取水口を切り広げて水量を増加させ、従来の路線を拡幅するとともに、その総延長を約20kmとする大工事であった。
沢名川取水堰は、東京電力株式会社の前身である福島電灯株式会社が、大正14年(1925)に黒磯市油井地内の那珂川水系沢名川に、沢名川発電所の発電用取水堰堤として建設したものである。
沢名川取水堰は、粗石コンクリート造りの石張り構造で高さ3.2m、長さ14.0mの重力式コンクリート堰堤であり、右岸側の取水口から最大毎秒0.556m3を取水して、延長約500mの導水路を経て、黒磯市油井地内の東京電力赤川発電所において、最大出力160kwの発電を行っている。
この沢名川発電所は、発電所付近の電力供給を目的として大正13年(1923)、野州電気株式会社が建設に着手したが、その後大正14年(1925)、福島電灯株式会社に引き継がれ、現在の規模に拡大して、工事が行われ、同年10月に竣工し、営業運転に入ったものである。
平成10(1998)年4月に、道の駅「明治の森・黒磯」がオープンしたが、その中核施設として旧青木周蔵那須別邸が位置づけられ復元されている。
内部は情報案内及び休息の場、さらには那須野ケ原開拓の歴史や青木周蔵那須別荘に関する展示室として一般に公開されている。
青木別邸は、明治の外交の中枢に関わり、ドイツ公使や外務大臣などを歴任した青木周蔵子爵(山口県出身)が、林業を目的として開設した「青木農場」内に、明治21(1888)年、別荘として建設されたもので、明治42年(1909)に現在の形になったものである。
そもそも、那須野ケ原において、明治の元勲たちが次々に農場を開設したのは明治13~18年頃であったが、青木周蔵による青木開墾(農場)もその一つである。
当時ドイツ特命全権公使であった青木は、明治14(1881)年に、原野約577町歩を開拓の目的で国から借り受け、最終的には、明治21年までに総計1580町歩余まで拡大させている。
(1町=9917.36㎡)
那須野観象台は、那須塩原市(旧西那須野町)千本松農林水産省草地試験場正面前左側の草地にある直径2m、高さ0.7mの小さな塚をいう。
この塚は観象台と呼ばれ、わが国近代測量史上きわめて重要なものである。
那須野観象台は明治8(1875)年に基線測量の北点として設置されたものであり、南点は大田原市親園上ノ原である。
この基線は明治9(1876)年8月に、英国人ヘンリー・シャボーの指導により測定された。明治11(1878)年4月~6月、アメリカ製ヒルガート式基線尺を用いて行われ、その距離は10628.310589mである。
なお、この基線測量は、本州で初めて実施されたものであり、現在、この直線上に縦道が開通し、那須疎水第4分水の掘割が設置されている。
日光北周辺
海尻橋は、国道121号(会津西街道)の五十里湖に昭和30年(1955)に架けられた橋長117.4m、幅員6mランガートラス橋である。
五十里湖は、昭和31年に完成した五十里ダムによって造られたもので、湖底には五十里宿が沈んでいる。天和3年(1683)、日光大地震で葛老山が崩れ、五十里、西川の両村がせき止められた男鹿川の水に沈み、出現したのが旧五十里湖である。
海尻橋は、布坂山付近における最も狭い場所が計画された。この付近がかって旧五十里湖の堰堤部分にあたることから海尻の名が起こった所である。そのため、その調査は慎重を極めたという。結局橋台設置に問題が少ない、ランガートラス形式が採用されることとなった。
五十里ダムは、建設省によって栃木県藤原町地先の利根川水系男鹿川に建設されたもので、高さ112m、堤頂長267mの重力式コンクリートダムであり、洪水調節・かんがい・発電を目的とした多目的ダムである。
この五十里ダムは、大正末期の鬼怒川改修計画における洪水調節のため、鬼怒川上流部初の洪水調節池として計画されたものである。
最初の計画地点は男鹿川と湯西川合流点に通称「海跡」といわれている自然堰堤付近とされた。この場所は、天和3年(1683)の地震による戸板山崩落(右岸)でせき止め湖が出現(享保8年の洪水で崩壊)したところである。
五十里ダムの建設は、昭和25年9月から昭和31年(1956)8月までの5年11ヵ月の歳月と総 事業費48億4千万円で竣工した。
黒部ダムは、鬼怒川発電所の前身である下滝発電所の取水用ダムとして、大正元(1913)年12月、 当時の鬼怒川水力発電株式会社により、利根川水系の鬼怒川と土呂部川との合流地点(旧栗山村(現日光市)黒部地内)に築造された、 高さ28.7m、堤頂長150.0m、洪水吐6門を有する重力式コンクリートダムであり、 発電専用ダムとしては、わが国初のコンクリートダムである。
本ダムの構造は、半径121mのアーチ形の平面形状を採用さいようしていることと、 越流部に、15mの長い水平部を採用さいようしていることなどが特徴である。
堤体材料としては、河床の玉石を用粗石コンクリートが使用され、表面は0.09~0.2m3に加工した石材を畳積みにした張石工が施されている。
宇都宮市今市浄水場は宇都宮市によって大正5年(1916)、日光街道沿いの今市市瀬川に建設された、わが国で31番目に古い施設である。旧着水井(径5m、深さ2.58m)、旧フロック形成池(長さ65m、幅4m、深さ1.40m)はいずれも煉瓦構造物である。沈殿地(49m×44m×深さ4m)は2池あり、緩い傾斜度の側壁を持っている。出水井の上屋は煉瓦建物(円筒状)であり、入り口、庇のデザインが特徴的である。また、赤い半切妻屋根をのせた白い洋館は宇都宮市水道資料館で創建以来70余年にわたって事務所の任を果たし資料館として保存された。昭和60年(1985)に厚生省企画による「近代水道100選」の一つとして選ばれている。
日光南周辺
日光山の入口の大谷川の狭窄部に古くから神聖な橋として架けられたのが神橋であり、奈良時代末に日光を開いた勝道上人が大谷川を渡るのに難儀していると、蛇神が現れて橋となり、また仙人が蛇橋に山菅を敷いたのがその起こりであるという伝説が残っている。
室町時代にはすでに現在の架橋地点に橋が架けられていたという記録があり、当時すでに有名な橋であったことや、橋脚のない棟梁型式であったことなどが知られる。
明治以降は何度か修理が施され昭和19(1944)に、国宝保存法により国宝建造物に指定され、昭和25年(1950)に文化財保護法により改めて国の重要文化財に指定されるとともに、木部の腐食が甚だしいことから修理工事を約7年かけて行った。
また、神橋は一般文化財と異なり常に雨ざらしの状態にあるため、平成9年度(1997)より再び修理工事を行っている(平成17年(2005)3月に竣工)。
さらに詳細な情報は、次のURLを参照ください。(日光二荒山神社HP)
わたらせ渓谷鉄道の終点足尾本山駅(現在は問藤駅)前の渡良瀬川(当時は松木川)に、古河橋がある。明治23年(1890)永久橋として架設された鉄橋である。架設以来100年を超えたことから、平成5年(1993)、下流側に車道の役割を持つ箱桁橋が架設され、木床版、木高欄を整備のうえ、現在歩道僑として利用されている。
古河橋の名称は、足尾銅山近代化の立役者である古河市兵衛(1832~1903)に由来する。足尾銅山の発見は、天文19年(1550)といわれ、幕営となった慶長15年(161O)から昭和48年(1973)までの総産銅量は約80万トンに達する。この歴史の長さは尾去沢鉱山に匹敵し、その産銅量は別子鉱山をしのぎ、日本最高となっている。
神子内橋は国道122号(現在では旧道)の足尾町野路又を流れる渡良瀬川支川神子内川に昭和10年(1935)に架設された橋長47m、幅員5.5mの鉄筋コンクリートアーチ橋である。神子内は足尾から日光への道筋に当たる。江戸時代・明治時代と長い間利用され活躍した旧神子内橋も、昭和になると自動車が発展してきたので、旧神子内橋とは別に新しく下流に新神子内橋が作られた。現在では旧神子内橋は地域の生活道路として利用されるようになっている。旧神子内橋のアーチの上の柱の間は14ヶ所のアーチ形の窓が左右対称に開き、コンクリート造りの高欄には5mおきに3ヶ所の小さなアーチ型の窓が開けられ、構造的、景観的に設計者の意図を感じさせる。
わたらせ渓谷鐵道は、足尾-足尾本山間で2度も松木川橋梁を渡るが、その下流寄りに位置する上路プレートガーター3連の橋が第一松木川橋梁である。
足尾鉄道の足尾-足尾本山間は、大正3年(1914)8月26日に開業したもので、第一松木川橋梁は、同3年に架けられた橋長56.45mの上路プレートガーター橋である。橋脚は、煉瓦造りの基礎の上イギリス流の錬鉄製橋脚(トレッスル様式)を載せたもので、2基の橋脚がある。
この第一松木川橋梁で用いられている構橋脚の上部には、イギリスのパテント・シャフト・アンド・アクスルトリー社1888年の製造銘板がついており、この構橋脚は、日本鉄道が東北本線北部に多数架設したものの転用と思われる。
釜ツ沢砂防堰堤は、日光東照宮の北を流れる稲荷川に築かれた砂防堰堤(ダム)で、昭和8年(1933)に竣工し、堤高20m、堤長64mの重力式練石積堰堤であり、水通し前面に導流堤と床固がそびえる特異な構造の形式を有している。稲荷川には上記をはじめとして、大正9年(1920)に竣工した稲荷川第二砂防堰堤(堤高7.Om、堤長40m)、同10年に竣工した第三(堤高5.8m、堤長76m)、第四(堤高3.6m、堤長69m)、同11年に竣工した第六(堤高7.3m、堤長69m)、同12年に竣工した第十(堤高11m、堤長45m)および昭和9年(1934)に竣工した釜ツ沢下流(堤高17m、堤長25m)などの数多くの重力式練石積堰堤が建設されており、いずれも今後同様な構造のものを建設することは難しいものである。
方等上流砂防ダムは、第1いろは坂の北を流れる深沢に建設省によって築かれた砂防ダムである。昭和27年(1952)に竣工したもので堤長58m、堤高30mの重力式練石積堰堤である。このダムの上流面積は、わずか4km2に過ぎないが、その上流には大薙と呼ばれる大崩壊地があり、洪水時には多量の土石を流出し下流域に多大な被害を与えていたため、大薙の最下端である方等の滝上流に砂防ダムが築造された。
方等上流砂防ダムの工事は、対日援助見返り資金により、昭和25年(1950)8月に着工し、昭和27年(1952)4月、工事費48,085円をもって竣工した。方等の滝上にあり、現地にいくのは危険であるが、いろは坂の剣が峰からはよくみられる。
足尾銅山のもたらした公害は、渡良瀬川下流の足尾鉱毒だけではなく、渡良瀬川上流においても煙害により、山地が荒廃し集落が消滅した。その後、昭和22年9月のカスリーン台風等、連年の災害により河川流域の荒廃が甚だしくなったため、昭和25年に渡良瀬川工事事務所が設置され、足尾ダム建設が促進された。足尾ダムは、煙害による荒廃地の喉元に当たる松木・仁田元・久蔵の3川が合流する直下流に計画されたが、規模が大きいことから昭和25年以前では着手できなかった。しかし、この年に対日援助見返資金が配布され、集中的に工事が実施された。形式は重力式ダムで、越流部18m、同非越流部39m、ダム長さ206.8m、築立立積93,168m3とわが国の砂防ダムの中で代表的なものである。
栃木県が施工を行った砂防工事で最も古い時のものは、第1いろは坂沿いの日光市馬返の地震薙、中の茶屋沢などの渓流である。
地震薙及び中の茶屋沢は、最も荒廃が甚だしい男体山を水源としており、火山灰と溶岩の硬柔互層の脆弱な性質のため、火山層を刻む放射状の侵食谷が発生し易いことから、土石流の被害を絶えず生じていた。明治35年の男体山の山津波、明治43年、大正3年の災害などから大正7年より内務省直轄事業として、大谷川支流稲荷川の工事に着手した。 大正8年の災害では大谷川流域だけではなく、思川支流大芦川水源地蔵沢にも山津波を起こした。このため、栃木県でも地震薙及び中の茶屋沢、地蔵沢の工事に着手した。
工事は砂防堰堤、床固工、山腹工等であり、工法は粗石コンクリート造りの重力式練石積堰堤である。
足尾銅山間藤発電所跡は、日本で最も古い、現地に保存されている発電遺産である。
足尾銅山は江戸時代に開かれ、明治10(1877)年以降、古河市兵衛が経営に乗り出したのを契機に日本有数の銅山となり、その急速な成長に応じて薪炭燃料による蒸気機関を使い始めたが、周辺の山はたちまち丸裸となってしまった。
そのため、明治17(1884)年ごろから動力源を水車に切り替え、 明治21(1888)年のジャーデーン・マジソン商社(英国)との「大量銅契約」を契機として機械化に踏み切り、シーメンス社(独国)のヘルマン・ケスラー技師の勧めで生産工程の電化を図ることとした。
発電所は、明治22(1889)年9月よりケスラーの設計に基づき着工し、翌23(1890)年12月に竣工した。
水源は松木川上流および深沢川とし、水路延長26町(約2830m)、トンネル5ヶ所、架橋2ヶ所で銅山川の岸に沿い3尺(90cm)四方の木樋を敷設し、落差105尺(約32m)の水圧を得るのもであった。
発電機としては、シーメンス社製のドルピン横水車400馬力を利用し、総電力90kwの電気をおこし、揚水用80馬力、巻揚用25馬力、電灯用6馬力を運転した。
送電は、本口坑前までの約7000尺(約2100m)を行い、さらに坑内へと接続されていた。
現在、わたらせ渓谷鉄道の終着駅である間藤駅から渡良瀬川を約600mほど川上に進んだ道路の右側に急峻な崖を後として水圧管の一部が保存されている。
また、鉄管の位置とは反対側の道路下の河川敷に、発電所跡が残されている。
細尾発電所および上ノ代発電所調水池は、日光市細尾町地内の国道122号の西側にある。古河機械金属株式会社の前身である古河鉱業会社(現古河電工株式会社)により、鬼怒川水系大谷川に建設された発電所の一つであり、現在、馬道・背戸山・細尾・上ノ代の4発電所がある。
大谷川の水力を利用して細尾に発電所を建設し、足尾銅山に動力を供給する計画は古河市兵衛の在世中よりの懸案だった。しかし、明治30年代、足尾鉱毒事件が活発化して足尾鉱毒予防命令が出されたことから、一切の起業工事は中止となった。大谷川の水力発電は明治37年の別倉発電所を皮切りに39年には細尾第1発電所43年には第2細尾発電所とそれぞれの発電所ができるようになった。
日光は国際避暑地として発展した。中禅寺湖の周囲には現在、イギリス、フランス、ベルギーなどの大使館の別荘がある。その1つが旧イタリア大使館夏季別荘である。奥日光中禅寺湖の東岸、砥沢に昭和3年頃に建設されたもので、平成9年まで大使館別荘として使われてきた。平成10年に栃木県が所有し、平成12年10月に「イタリア大使館別荘記念公園」としてオープンした。現在公開されているのは、大使と家族が使った本邸と、国際避難地歴史館になっている副邸である。
本邸を設計したのは、著名な建築家で外交官であった、チェコ生まれの米国人アントニー・レーモンドである。
木造2階建ての本邸と木造平屋の副邸はいずれも、外壁を全て杉皮を格子に組んで張り、割竹で押さえた仕上げとしている。
外山原取水堰は、東京電力株式会社の前身である下野製麻株式会社が、明治30年(1897)、日光市萩垣面地内の利根川水系大谷川支線赤沢川に、東京電力所野発電所の発電用取水堰として建設したものである。形状は、自然石を乱積みにした高さ3.73m、長さ26.7mの練積コンクリート堰堤で、切石積の排砂門2連がある。下野製麻株式会社は、もともと鹿沼工場で麻糸その他の生産を行っていたが、当時漁網に用いられる麻糸の需要が各地で非常に増加したことから、大量生産可能な工場が日光に作られその動力源として稼動していた。この外山原取水堰は、現役の発電用堰堤としては最古のものであり、磨耗防止のため施工された表面石張工など建設当時の姿を止めている。
矢板周辺
鬼怒川橋梁・上り線は、東北本線の岡本~宝積寺間の鬼怒川に架かる橋長482.9mの鉄橋で、大正6(1917)年に架設されたワーレントラス橋とプレートガーター橋の混合橋である。
わが国初の私鉄会社である「日本鉄道会社」は、明治18(1885)年~翌19(1886)年にかけて、宇都宮~那須間を敷設した際、西鬼怒川に橋長253mの錬鉄ポニーワーレントラスとプレートガーターの混合橋(明治18年12月)、および東鬼怒川(現在の氏家大橋付近)に約300mの錬鉄ポニーワーレントラス橋を架設した。
しかし、架設後、大暴風雨により宇都宮以北の路線変更を余儀なくされ、明治28(1895)年に台地上を通る路線(宇都宮から東へ向かう路線)となり、これに伴い、翌29(1896)年に、西鬼怒川および東鬼怒川橋梁は廃橋となっている。
その後、明治30(1897)年に、新たな鬼怒川橋梁(ポニーワーレントラス橋)が架設された際に、東鬼怒川橋梁のワーレントラスを再生利用したと言われている。
なお、現在の橋梁は、大正6(1917)年に架け替えられたものであり、旧鬼怒川橋梁のトラス部が移設されたものではなく、まったく新たに架設されたものである。また、橋脚も新たに造られたもので、隅石飾りと三角水切りの付いた煉瓦造りとなっている。
烏山周辺
境橋は、那須烏山市の東端を流れる那珂川に、昭和12(1937)年11月に架けられた橋長112.5m、幅員6.1mの鉄筋コンクリートアーチ橋である。
明治の初期までは渡し舟で連絡していたが、明治30(1897)年に、幅7尺(約2m)、長さ6間(約11m)の舟を10艘並べ、その上に梁を渡し、板を敷き並べた舟橋を設置した。
しかし、洪水時には取り外さなければならないなどの問題があったため、大正9(1920)年に木橋が架設され、その後、昭和12(1937)年に、永久橋となる現在の境橋が架けられた(総工費5万4千円余)。
境橋の構造は、ほぼ同じ3径間のオープンスパンドレル(開腹)の上路式鉄筋コンクリートアーチ橋で、1連のアーチスパン(支間)は36m、アーチライズ(拱矢)4.5m、アーチリング(拱環)が中央部の厚さ60cm、端部の起拱点の厚さ120cmとなっている。
アーチリングには、支壁が各径間とも左右に並び床板を支えており、アーチの中央部は床板と一体化している。
3つの開腹アーチは、周辺の景観ともマッチし、美しい景観を与えている。
宇都宮周辺
石那田発電所は、明治35年(1902)1月、宇都宮電灯株式会社が宇都宮市内の電力供給を目的として、宇都宮市石那田町仲内地内(旧河内郡篠井村)に利根川水系田川、赤堀川を利用して2台の発電機で認可出力200kwの発電所を建設した小規模な発電所である。約15km離れた宇都宮変電所(現在の宇都宮中央郵便局の位置)まで、3,000Vで送電開始したものであったが、建設後60年経たこと、小規模な施設であること、さらに農業用水との問題などから、昭和38年(1963)3月で廃止された。
県都宇都宮市におけるはじめての点灯は、明治31年(1898)に二荒山神社の前といわれ、明治32年(1899)6月には資本金13万5千円で宇都宮電灯株式会社が高津弥平によって設立された。当時は薪を使った火力発電で、市街地の中心部を供給していたが、大部分の家庭は石油ランプを使っているため、火災が多かったという記録が残っている。
八幡山公園は、宇都宮市街地北方の茶臼ヶ峰から慈光寺山に連なる丘陵地帯に位置する面積約11.6haの都市公園である。
八幡山の公園化は、明治39年(1906)、塩田蓬一郎がこの丘上に「塩田園」を開園したことにはじまる。塩田園は、大正4年(1915)から5年頃までは入園料金を徴収して、その維持管理に当たっていた。大正14年(1925)の宇都宮市議会で、市民の健康増進を図るため都市公園の建設が決議され、山林その他12町8反5畆を買収することになり、宇都宮市が買収して公園としたものである。
そして、林学博士田村剛の設計に基づき、自然の丘陵を取り入れた公園が造園され、昭和2年(1927)4月1日に市民に開園された。八幡山公園の名称は丘陵中腹にある八幡宮に由来し、この開園により名付けられた。
掩体壕(えんたいごう)とは、飛行機などを敵の爆弾や機銃弾から守るために造られた軍事施設である。
栃木県内には、宇都宮飛行場跡(現栃木県立農業大学校敷地内)のほか、金丸飛行場跡(現那須野ケ原カントリークラブ敷地内)などに残されている。
「宇都宮飛行場」は、昭和14(1939)年に当時の陸軍が清原村の約320haを買収し、翌15(1940)年に「宇都宮陸軍飛行学校」を発足させ、同16(1941)年9月に完成したもので、滑走路、兵舎、陸軍航空廠※を併設していた。
その広さは、米軍の作成した「日本の飛行場」という文書によれば、6,800feet×5090feet(2,070m×1,550m)とされている。
滑走路はコンクリート製で南北に伸びており、付属施設として、
・大型格納庫:14箇所
・小型格納庫:12箇所
・爆撃機用および戦闘機用掩体壕:24箇所
・その他作業場所
が設置されていたとされている。
なお、掩体壕は、65feet(約19.8m)未満を戦闘機用、それ以上を爆撃機用と区分していた。
現存する掩体壕は、この「宇都宮飛行場」の完成とともに設置されたものであり、飛行機を入れるための円形入口を前後に設けたドーム状のコンクリート構造物である。
現在は、栃木県立農業大学校の耕作地内にあり、静かな雰囲気の中にたたずんでいる。
※航空廠とは、飛行機、爆弾、弾薬等を調達し、作戦戦域に届けるなどの補給のほか、損傷機の修理や改築を行う組織のことである。
鹿沼周辺
地蔵沢は、鹿沼市草久にある地蔵岳(標高1484m)に源を発し、大芦川に合流する渓流である。
崩壊し易い足尾石英斑岩で古くから崩壊を繰り返していたが、大正8(1919)年9月の豪雨による被害をきっかけに応急工事に着手した。
大正11年以降、本格的な砂防工事に着手し、昭和5(1930)年度までの10ヵ年に、砂防堰堤38基、谷止工5基および山腹工事2427㎡を完成している。
地蔵沢本流筋には、上流から第1号、第2号と順番に砂防堰堤が築かれており、いずれの堰堤にも、堰堤番号、施工年次が記されている。
大正11年度には、第1および第2堰堤が竣工され、第1堰堤は最上流部に位置し、高さは6.4m、長さ14.0mの重力式練石積、第2堰堤は、高さ7.6m、長さ14.0mの重力式練石積である。
工法は、粗石コンクリート造りで、堰堤の上下流面および天端には現地採取の石が張られている。
現在、これらの施設は完全に崩壊斜面に溶け込んでおり、植栽が繁忙し、昔の面影を知ることは困難である。
栃木周辺
与良川排水機場は、与良川流域の湛水被害を防ぐ目的で小山市生井地内に設置されたもので、現在の第1、第2排水機場の総排水量は、毎秒25.726m3である。
当地域は、渡良瀬遊水地に接し、思川、巴波川に挟まれた平坦な湿地地帯であるため、長い間、降雨の度に地域一円が湛水被害を受ける”水害常襲地域”であった。
このため、昭和5(1930)年、「生井村外3ヶ村耕地整理組合」が結成され、昭和9(1934)年から同11(1936)年にかけて排水機が設置された(旧第1機場:排水量は毎秒7m3、エンジン2基(300馬力/基))。
その後、昭和22(1947)年の洪水により旧第1機場が水没したため、昭和24(1949)年から同27(1952)年にかけて「県営与良川沿岸排水事業」が実施され、与良川の改修と排水機の増設が図られ、旧第2機場が設置された。
また、昭和37(1962)年から同39(1964)年にかけて「湛水防除事業」が実施され、与良川の最上流部に新荒川放水路を開削し、第3機場が設置された。
さらに、昭和44(1969)年から同47(1972)年にかけて「県営湛水防除事業」が実施され、毎秒約15m3の排水能力を持つ第4機場が設置された。
そして、昭和53(1978)年から平成元(1989)年にかけて「県営かんがい排水事業」が実施され、従来の第1、第2機場を老朽化のために廃止し、新たに毎秒10m3の排水機を設置(第2排水機場)、従来の第4機場を新たに第1排水機場と改名した。
現在、第1排水機場の敷地内に、旧第1機場で使用していたエンジンおよび排水機が保存、展示されており、当時の状況を知ることができる。
渡良瀬遊水地第1調整池の東側に、旧谷中村で使用したといわれる内水排除施設の一部(取水口の基部)が残っている。(左写真:上)
この赤煉瓦構造物は、明治27(1894)年、全国では3例目となる排水器設置のために建造されたものと考えられ、旧谷中囲堤最南端の馬踏上に立地している。
規模は、内幅4.3m、北壁高6.5m、南壁高4.0mで、壁厚は0.57mである。
ここで使用された赤煉瓦は、明治21(1888)年に設立された「下野煉化製造株式会社」で製造されたもので、イギリス積みされている。
この「下野煉化製造株式会社」は、三井合名会社の援助を受け、地元の有志によって野木町に設立され、わが国で最も古い「ホフマン式輪窯・素地製造機」を備えた機械製煉瓦製造工場である。
「ホフマン式輪窯」は、ドイツのフリードリヒ・ホフマンが1856年に発明した連続窯の一種である。
野木町に現存している窯は、明治23(1890)年6月15日に完成した「ホフマン東窯」で、ホフマン初期の輪窯形態を良く残しており、小菅集治監の技術指導を受けたとされ、昭和46(1971)年の製造中止まで、約80年間に渡り活躍した貴重な産業遺産でもある。(左写真:下)
なお、ホフマン西窯は、大正12(1923)年の関東大震災により倒壊している。
現存している窯は煉瓦造りであり、平面16角形で外周が約100m、煙突高は34m強で、上部には400個の投炭孔を配し、窯内部は円形環状トンネルで、その中央に断面8角形の煙突を立て、地盤高11.5mの位置より放射状に木造の上屋を架けている。
外壁は赤煉瓦をイギリス式(一部フランス式)積みしており、16室それぞれにアーチ形の出入口を設け、東西には燃料運搬用の階段が付設されている。
また、煉瓦の原料は、旧谷中村で産出する良質の粘土と川砂を使用し、1基での年間最大焼成数は250~300万個とされている。
巴波川は栃木市北方の湧水を主な水源とし、かつては野木宿西方で思川に合流していた。巴波川は元来、水田の灌漑用水であり、いつ頃から荷船が行き来するようになったか定かではないが、舟運の隆盛が徳川家康の柩の日光改葬によってもたらされた可能性が強い。
その巴波川舟運の遡航終点があった栃木の河岸は、上流から平柳河岸・栃木河岸・片柳河岸の3ヶ所あり、これを総称して「栃木河岸」と呼ばれた。
土木遺産として残されているのが雑割石積護岸であり、明治以降に造られたものである。特に、明治9年の栃木県庁舎の建設に伴い発生した雑割石を利用して造られた石積護岸が、その多くを占めている。江戸時代に造られた護岸は切石積護岸(石を横長に並べたもの )であり、荷揚げ所や橋周辺に造られたと推察される。
渡良瀬遊水地は、利根川の中流部に位置し、栃木・群馬・茨城・埼玉の4県にまたがる日本で最大級の遊水地である。その面積は約3,300haであり、近隣市町の茨城県古河市や埼玉県北川辺町の行政面積よりも大きな面積を有している。
遊水地とは、平地部に流れる河川に接して、出水時には上流からの流水の一部を保留し、下流に流れる量を少なくする効果を持っている施設を指す。
渡良瀬遊水地は周囲を堤防で囲まれ、その中に渡良瀬川、思川、巴波川の3河川が流入し、平水時には各河川とも低水路を通じて利根川に合流し、洪水時には越流堤より越流して地内一面に湛水させる。下流に多くの資産が集中する利根川水系にあって、渡良瀬遊水地は治水の上で大きな役割を果たしている。
この渡良瀬遊水地が現在のような姿になったのは、1910(明治43)年から1922(大正11)年にかけて行われた「渡良瀬川改修工事」によってである。
なお、この渡良瀬遊水地建設が、谷中村(約300世帯)の廃村という尊い犠牲の基に行われたことは、記憶に留めておく必要がある。
佐野周辺
伊保内橋は、佐野市伊保内町地内を流れる秋山川に大正14(1925)年に架設された鉄筋コンクリート橋である。
橋長は50.4m、幅員は2.7mである。
明治44(1911)年度から大正15(1926)年度にかけて行われた、渡良瀬川改修工事の一環として、「巴波川橋」「藤岡新開橋」「藤岡里橋」とともに施工された(当時は「秋山川橋」)。
工事は、管理者である植野村が内務省に委託し、大正13(1924)年10月に着工、全長28間、径間4間7尺、幅員9尺で、同14(1925)年11月に竣工した。
なお、当時、木材が非常に高価であったため、鉄筋コンクリートを採用したといわれている。(当時の工事費:12,200円)
渡良瀬川橋梁は、大正3(1914)年、東武鉄道佐野線の渡瀬~田島間の渡良瀬川に架けられたアメリカ製のプラットトラス橋(橋長427.4m)である。
2基の橋台および16基中12基の橋脚は煉瓦造りである。特に橋脚には錫飾りが付いている。
このアメリカ製のプラットトラス橋は、明治31(1898)年に、官設鉄道がアメリカの著名な橋梁技術者であったクーパーとシュナイダーに設計を依頼した標準トラス桁であり、計10種類に及んでいる。
260連以上を製作の上、全国各地で架設されており、アメリカからの輸入が大半ではあるが、鋼材や部材のみを輸入し国産した例も含まれている。
なお、現在の渡良瀬川橋梁は、南側の上部工が新しいものに改修されており、現存するのは全体の約1/3程度である。
明治43年の大洪水を契機として、渡良瀬川の改修工事が着工された。改修工事はこれら上流部からの氾濫を防止し、榎戸地先の屈曲部より直路幹線にて渡良瀬川に合流させ、両岸に堤防を築造し、本支川の氾濫を防御し、藤岡新川開削によって上流部河床を低下させ、新秋山川を直路にて合流させるものであった。しかし、本川沿岸は幹川上流からの氾濫地でもあり、上流地区及び下流地区が新川に対する利害が異なり、その解決は容易ではなかった。
大正9年(1920)、渡良瀬川改修と合わせて才川樋管が設置され、同11年に菊沢樋管が設置され、同12年、秋山川は従来の下流4kmを廃川とし、船津川付近を南に直流し、平均川幅36m、長さ720mの新川開削が完成された。
菊沢川放水路は、昭和20年(1945)1月に着手し、同年に延長220間、幅員2間の放水路が完成した。
足利周辺
渡良瀬橋は、主要地方道足利太田線の足利市通四丁目とその対岸の田中町を流れる渡良瀬川に、昭和9年9月に架けられた橋長243.27m、幅員5.5mの6連下路ワーレントラス橋と3連鉄筋コンクリートT桁橋の混合橋である。また、上流側に昭和39年に渡良瀬橋側道橋(単純合成鋼鈑桁)が架橋されている。昭和9年の改築は陸軍特別大演習に伴い実施されたものであり、同年2月に着工し、6ヶ月後の9月に竣工している。
この渡良瀬川に初めて橋が架けられたのは、明治35年のことで、渡良瀬橋と名づけられた。橋長133間3分(約340m)、幅2間半、6連のボーストリング橋と3連の和式橋梁の混合木造橋である。橋台、橋脚は切石積で造られ、橋脚は三角水切りをつけたラーメン構造であり、橋台と共に現在利用されている。大正6年に木造トラス橋に架け替えられており、これが現在の形式の基本となった。
田沼町下彦間から足利市名草町に抜ける県道飛駒足利線の須花坂に3本のトンネルがある。明治、大正、昭和の各時代に造られ、その形式も時代により素掘り、煉瓦、コンクリート造りと変遷している。 現在、使用されているのは、昭和55年度に完成した中央を通るコンクリート造りトンネルで、全長157.5m、幅員7.0mである。
このトンネルの下彦間側から向かって右側(北)が、栃木県が大正6年に造った煉瓦アーチ式トンネルである。大正トンネルとも称し、全長82m、アーチ高3.4m、幅約3.6mである。 左側(南側)のトンネルは、明治25年に造られたもので、全長117m、幅約3.6mの素掘りのトンネルであり、明治トンネルとも称している。なお、このトンネルは、地元民によって造られたものである。
時代により異なる形式のトンネルが現存することで、トンネルの技術や交通の変遷史を知る上で貴重な遺産といえる。
お勧め見学コース
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日光足尾見学コース
■駐車可
神子内橋は国道122号(現在では旧道)の足尾町野路又を流れる渡良瀬川支川神子内川に昭和10年(1935)に架設された橋長47m、幅員5.5mの鉄筋コンクリートアーチ橋である。神子内は足尾から日光への道筋に当たる。江戸時代・明治時代と長い間利用され活躍した旧神子内橋も、昭和になると自動車が発展してきたので、旧神子内橋とは別に新しく下流に新神子内橋が作られた。現在では旧神子内橋は地域の生活道路として利用されるようになっている。旧神子内橋のアーチの上の柱の間は14ヶ所のアーチ形の窓が左右対称に開き、コンクリート造りの高欄には5mおきに3ヶ所の小さなアーチ型の窓が開けられ、構造的、景観的に設計者の意図を感じさせる。
■第一松木川橋梁に駐車場が無いため、駅の駐車場をご利用ください。
わたらせ渓谷鐵道は、足尾-足尾本山間で2度も松木川橋梁を渡るが、その下流寄りに位置する上路プレートガーター3連の橋が第一松木川橋梁である。
足尾鉄道の足尾-足尾本山間は、大正3年(1914)8月26日に開業したもので、第一松木川橋梁は、同3年に架けられた橋長56.45mの上路プレートガーター橋である。橋脚は、煉瓦造りの基礎の上イギリス流の錬鉄製橋脚(トレッスル様式)を載せたもので、2基の橋脚がある。
この第一松木川橋梁で用いられている構橋脚の上部には、イギリスのパテント・シャフト・アンド・アクスルトリー社1888年の製造銘板がついており、この構橋脚は、日本鉄道が東北本線北部に多数架設したものの転用と思われる。
■駐車可
わたらせ渓谷鉄道の終点足尾本山駅(現在は問藤駅)前の渡良瀬川(当時は松木川)に、古河橋がある。明治23年(1890)永久橋として架設された鉄橋である。架設以来100年を超えたことから、平成5年(1993)、下流側に車道の役割を持つ箱桁橋が架設され、木床版、木高欄を整備のうえ、現在歩道僑として利用されている。
古河橋の名称は、足尾銅山近代化の立役者である古河市兵衛(1832~1903)に由来する。足尾銅山の発見は、天文19年(1550)といわれ、幕営となった慶長15年(161O)から昭和48年(1973)までの総産銅量は約80万トンに達する。この歴史の長さは尾去沢鉱山に匹敵し、その産銅量は別子鉱山をしのぎ、日本最高となっている。
■駐車可
■大型車も可
■トイレ有
■バリアフリー
足尾銅山のもたらした公害は、渡良瀬川下流の足尾鉱毒だけではなく、渡良瀬川上流においても煙害により、山地が荒廃し集落が消滅した。その後、昭和22年9月のカスリーン台風等、連年の災害により河川流域の荒廃が甚だしくなったため、昭和25年に渡良瀬川工事事務所が設置され、足尾ダム建設が促進された。足尾ダムは、煙害による荒廃地の喉元に当たる松木・仁田元・久蔵の3川が合流する直下流に計画されたが、規模が大きいことから昭和25年以前では着手できなかった。しかし、この年に対日援助見返資金が配布され、集中的に工事が実施された。形式は重力式ダムで、越流部18m、同非越流部39m、ダム長さ206.8m、築立立積93,168m3とわが国の砂防ダムの中で代表的なものである。
■駐車可
第二渡良瀬川橋梁は、わたらせ渓谷鉄道の向原・通洞間を流れる渡良瀬川に、大正元年(1912)に架けられた橋長104.85mのプラットトラス橋である。わたらせ渓谷鉄道は、JR発足を前に、国鉄再建法によって特定地方交通線の指定を受けたが、関係自治体と協議の結果、平成元年3月に第三セクターとして存続した。橋梁形式は下路プラットトラスの鉄橋であり、トラス桁2連、プレートガーター1連で構成されている。トラス橋は東京石川島造船所より明治44年に製作された。
黒磯・那須見学コース
■普通車は河川敷に駐車可能
■仮設トイレ有
晩翠橋は、黒磯市本郷町と那須町橋本町の間の那珂川に、昭和7年7月に架けられたバランスドアーチ橋である。主要地方道西那須野那須線が通っており、橋長127.8m、幅員8.7mである。
現在のものは5代目で、最初に架けられたのは、明治17(1884)年10月の陸羽街道工事の一貫として、架けられた。場所は現在の晩翠橋の数10m上流部で、川原に立っている古い橋脚に隣接した所であった。この橋は3か所に木材を組み立て橋脚としたものであった。波子の長さ60間(約110m)、幅は4間(約7.3m)であった。なお、黒磯市誌では、長さ40間としている。
■駐車場は道の駅明治の森・黒磯を使用
■トイレ有
平成10(1998)年4月に、道の駅「明治の森・黒磯」がオープンしたが、その中核施設として旧青木周蔵那須別邸が位置づけられ復元されている。
内部は情報案内及び休息の場、さらには那須野ケ原開拓の歴史や青木周蔵那須別荘に関する展示室として一般に公開されている。
青木別邸は、明治の外交の中枢に関わり、ドイツ公使や外務大臣などを歴任した青木周蔵子爵(山口県出身)が、林業を目的として開設した「青木農場」内に、明治21(1888)年、別荘として建設されたもので、明治42年(1909)に現在の形になったものである。
そもそも、那須野ケ原において、明治の元勲たちが次々に農場を開設したのは明治13~18年頃であったが、青木周蔵による青木開墾(農場)もその一つである。
当時ドイツ特命全権公使であった青木は、明治14(1881)年に、原野約577町歩を開拓の目的で国から借り受け、最終的には、明治21年までに総計1580町歩余まで拡大させている。
(1町=9917.36㎡)
■駐車可
那須疏水橋は、黒磯市西岩崎の那須疎水に、明治38年(1905)に架けられた石造りのアーチ橋である。現在は旧道となったが、県道矢板那須線が通っていたもので、橋長5.0m、幅員3mである。
明治18年(1885)9月、那須野ケ原の開発に伴う那須疏水の完成当時は、簡単な木橋で両岸の村を結んでいたといわれる。しかし、木橋のため痛みが著しいことから、明治38年(1905)11月頃に石積のアーチ橋に架け替えられたものである。丁度、西岩崎取入口の第1回目の変更の時期であり、同じ技術者によって造られたものであろう。なお、那須野ケ原の疏水工事に携わった石職人は大分県25人、岡山県4人、福島県1人という記録が残されている。
■普通車駐車場有
■トイレ有
那須疏水は、那須野ケ原の大農場(開拓地)を潤すために、国営事業として、明治18年(1885)に開かれた用水である。
大々的に開拓事業に着手したものの、元来水に乏しく、移住者や家畜の飲用水にも事欠く有り様だった。そこで農場関係者は、水路の開削を国に願い出た。
明治18年4月15日、鳥ケ森(西那須野三区町)丘上で起工式が行われ、わずか5ケ月後の9月5日には黒磯市西岩崎の那珂川から西那須野町千本松に至る8,990間(約16.3km)の本幹線路が完成した。そして、同年から翌年にかけて、4本の分水路が開かれた。こうして、開かれたのが那須疏水である。
今市・日光見学コース
■駐車場有
■トイレ有
日光杉並木街道は、国の特別史跡(昭和27年)、特別天然記念物(昭和29年)と二重指定を受けるだけではなく、平成4年ギネスブックにも掲載されて、単独の樹木では「世界一の並木道」という貴重な文化財である。この日光杉並木街道は、日光街道、例幣使街道、会津西街道の三街道の並木植栽区間を総称したもので、その延長は約37kmである。即ち、日光街道は日光から今市市山口に至る19.2km、例幣使街道は今市市から小倉に至る13.9km、会津西街道は今市市から大桑に至る3.9kmの区間で、杉並木総数約13,000本という。
杉並木植栽事業について、植栽の経過など、まだ判然としない点が多いとされている。この中で貴重なのは、杉並木植栽の事績を記した石の標柱「並木寄進碑」が、日光神橋脇を基標に、3街道のそれぞれの並木の起点に「並木寄進碑」が建てられている。
※注意
見学する場合は事前に申し込みが必要となります。
TEL 0288-21-0158
宇都宮市今市浄水場は宇都宮市によって大正5年(1916)、日光街道沿いの今市市瀬川に建設された、わが国で31番目に古い施設である。旧着水井(径5m、深さ2.58m)、旧フロック形成池(長さ65m、幅4m、深さ1.40m)はいずれも煉瓦構造物である。沈殿地(49m×44m×深さ4m)は2池あり、緩い傾斜度の側壁を持っている。出水井の上屋は煉瓦建物(円筒状)であり、入り口、庇のデザインが特徴的である。また、赤い半切妻屋根をのせた白い洋館は宇都宮市水道資料館で創建以来70余年にわたって事務所の任を果たし資料館として保存された。昭和60年(1985)に厚生省企画による「近代水道100選」の一つとして選ばれている。
■有料駐車場
一回500円
日光山の入口の大谷川の狭窄部に古くから神聖な橋として架けられたのが神橋であり、奈良時代末に日光を開いた勝道上人が大谷川を渡るのに難儀していると、蛇神が現れて橋となり、また仙人が蛇橋に山菅を敷いたのがその起こりであるという伝説が残っている。
室町時代にはすでに現在の架橋地点に橋が架けられていたという記録があり、当時すでに有名な橋であったことや、橋脚のない棟梁型式であったことなどが知られる。
明治以降は何度か修理が施され昭和19(1944)に、国宝保存法により国宝建造物に指定され、昭和25年(1950)に文化財保護法により改めて国の重要文化財に指定されるとともに、木部の腐食が甚だしいことから修理工事を約7年かけて行った。
また、神橋は一般文化財と異なり常に雨ざらしの状態にあるため、平成9年度(1997)より再び修理工事を行っている(平成17年(2005)3月に竣工)。
さらに詳細な情報は、次のURLをご参照ください。(日光二荒山神社HP)
■普通自動車は2時間まで200円
大型バス可
那須疏水は、那須野ケ原の大農場(開拓地)を潤すために、国営事業として、明治18年(1885)に開かれた用水である。
大々的に開拓事業に着手したものの、元来水に乏しく、移住者や家畜の飲用水にも事欠く有り様だった。そこで農場関係者は、水路の開削を国に願い出た。
明治18年4月15日、鳥ケ森(西那須野三区町)丘上で起工式が行われ、わずか5ケ月後の9月5日には黒磯市西岩崎の那珂川から西那須野町千本松に至る8,990間(約16.3km)の本幹線路が完成した。そして、同年から翌年にかけて、4本の分水路が開かれた。こうして、開かれたのが那須疏水である。
田母沢及び荒沢橋梁は、旧東武鉄道日光軌道線の前身である日光電気軌道株式会社により日光市田母沢、荒沢に架設された橋長24.0m、鋼ソリッドリブ・アーチ(3ヒンジ・上路)(2橋とも同じ)であり、明治43年に架設されたと推定される。明治43年8月、日光停車場から鼻の岩までの8km余の路線で営業を開始し、大正2年10月には日光から馬返しまでの全長9.6kmが開通した。終点馬返しの標高838mは、日本の路面鉄道が到達した最高地点である。両橋梁は、アーチ部がハの字形の特異な形状であり、貴重な鉄道遺産でもある。
■普通車駐車可
細尾発電所および上ノ代発電所調水池は、日光市細尾町地内の国道122号の西側にある。古河機械金属株式会社の前身である古河鉱業会社(現古河電工株式会社)により、鬼怒川水系大谷川に建設された発電所の一つであり、現在、馬道・背戸山・細尾・上ノ代の4発電所がある。
大谷川の水力を利用して細尾に発電所を建設し、足尾銅山に動力を供給する計画は古河市兵衛の在世中よりの懸案だった。しかし、明治30年代、足尾鉱毒事件が活発化して足尾鉱毒予防命令が出されたことから、一切の起業工事は中止となった。大谷川の水力発電は明治37年の別倉発電所を皮切りに39年には細尾第1発電所43年には第2細尾発電所とそれぞれの発電所ができるようになった。
足利市見学コース
■無料
明治45年、東武鉄道は、足利町議会に足利町停車場より足利町二丁目に通じる橋梁の新設出願を提出し、大正初期に、今の中橋の位置に東武鉄道は舟橋を設けている。
しかし、少しでも増水すると取り外さねばならず、通行止めとなったりしたことから、昭和9年4月、栃木県、足利市、東武鉄道が共同事業者として、中橋の永久橋の架設に着工した。橋長約295m、橋の中央部に下路のブレースドリブ・タイドアーチを3連おいた形式であり、橋脚はRCラーメン型とした。工事は、昭和11年(1936)7月末日に終わり、同年8月7日の「七夕の花火大会」の当日、開通式を迎えるのである。
渡良瀬橋は、主要地方道足利太田線の足利市通四丁目とその対岸の田中町を流れる渡良瀬川に、昭和9年9月に架けられた橋長243.27m、幅員5.5mの6連下路ワーレントラス橋と3連鉄筋コンクリートT桁橋の混合橋である。また、上流側に昭和39年に渡良瀬橋側道橋(単純合成鋼鈑桁)が架橋されている。昭和9年の改築は陸軍特別大演習に伴い実施されたものであり、同年2月に着工し、6ヶ月後の9月に竣工している。
この渡良瀬川に初めて橋が架けられたのは、明治35年のことで、渡良瀬橋と名づけられた。橋長133間3分(約340m)、幅2間半、6連のボーストリング橋と3連の和式橋梁の混合木造橋である。橋台、橋脚は切石積で造られ、橋脚は三角水切りをつけたラーメン構造であり、橋台と共に現在利用されている。大正6年に木造トラス橋に架け替えられており、これが現在の形式の基本となった。
■普通自動車は2時間まで200円
大型バス可
那須疏水は、那須野ケ原の大農場(開拓地)を潤すために、国営事業として、明治18年(1885)に開かれた用水である。
大々的に開拓事業に着手したものの、元来水に乏しく、移住者や家畜の飲用水にも事欠く有り様だった。そこで農場関係者は、水路の開削を国に願い出た。
明治18年4月15日、鳥ケ森(西那須野三区町)丘上で起工式が行われ、わずか5ケ月後の9月5日には黒磯市西岩崎の那珂川から西那須野町千本松に至る8,990間(約16.3km)の本幹線路が完成した。そして、同年から翌年にかけて、4本の分水路が開かれた。こうして、開かれたのが那須疏水である。
■無料
栃木市・下都賀郡見学コース
■普通車・大型車駐車可
■トイレ有
八雲橋は、栃木市薗部町の農業用(かざの堀)に、地元の有志によって架けられた大谷石造りのアーチ橋である。大正5年に架橋されたもので、橋長5.00m、幅員2.90mである。架橋の目的は、錦着山参詣のためのものと考えられている。
橋の構造は、大谷石で造られた径間3.6m、桁下1.90mの欠円断面のアーチ橋である。アーチ部は幅約32~33cm、長さ40cmの石を13個積み上げたものである。中央部の要石には橋梁名、施工年次と施工者名が記されており、施工者は地元の石工大塚藤吉氏となっている。
八雲橋は、保存状態も良く、本県石橋の歴史を知る上で貴重なものと考えられる。
■普通車・大型車駐車可
■トイレ有
■普通車・大型車駐車可
■トイレ有